“ たとえば、ベートーベンの五番を聞いても何も感じない人がいるとしましょう。それは別に恥ずかしいことではない。そういう人は、悪しき教養主義さえ一掃されれば、結構いることが判明するでしょう。だから、俺にはあれは解らない、でいい筈です。ところで悪しき教養主義が命じるところに従うなら、五番が詰らなかった、理解できなかった、は由々しき事態だということになる。だから是が非でも解らなければならない——それどころか、音楽として自然に判る、楽しめる人々威圧し、こいつ本当は解っていないのではないかという疑念を一掃するためにも、彼らよりはるかに解らなければならない。
その結果出てくるのが、たとえばこういう言葉です——「運命はかく扉を叩く。」或いは「英雄の苦闘と勝利」。どうです? まるで何か判っているように見えるでしょう? もう少し手の込んだ「判り方」を披露したければ、五番をベートーベンの自伝に見立てて、ウィーン体制の閉塞感だのベートーベンの政治性だの苦悩だのを論じればいい。
— 佐藤亜紀『小説のストラテジー』
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